2013/05/17 (金) - ブログ

講師生命を懸ける

今までに、3度くらい自分自身で「講師生命を懸ける」と宣言して、生徒の指導に当たったことがあります。

たとえば、「このクラス全員を第一志望校に絶対に合格させる。そのことに講師生命を懸ける」というように。


講師生命を懸けると言うことは、その目標が達成できなければ講師を辞めるということです。当然会社も辞めるということです。幸いにしてすべての案件で無事目標が達成したのですが、それからだいぶ時間がたった時に、もし目標が達成できていなかったらどうしただろうかと、じっくり考えたことがあります。


講師生命を懸けると宣言した仕事に失敗したのだから、どんな理由があろうとも絶対講師をやめるべきだという自分と、自分が社会貢献できるのはこの仕事しかないという考えが交錯して、深い葛藤に1か月位は翻弄されつ続けると思います。


その上で想像の範囲ですが、たとえば東日本大震災の寄付に個人のお金を50万円位寄付して、「約束違反ですが、 もう一度講師をやらせてくれませんか」 とお願いしたのではないかとも思います。偉そうなことを書いても私も普通の一家庭人なので、この寄付について家人に説明して了解を取る必要があります。家人は、全く公共性の無い人間ではありませんが、自分の独断で50万円を寄付するとなると、当然詳しい説明を求められることになります。そこでも了解を得るのに大変なエネルギーを必要とするのは容易に想像できます。


また、その約束は「誰とした約束なのか」,もう一度講師をやることを「だれにお願いするのか」ということになると、、もちろん周りのスタッフと約束したのは事実ですが、本当に率直に自分の心の中を申せば「世の中の真理」や「自分の講師魂」と約束し、それにお願いすると答えるしかありません。


はた迷惑な大騒動を繰り広げながら、とことん苦しみ抜いたうえで、一応まわりの最低限の少しばかりの理解をいただいて、それでもやはり講師は続けていたのではないか.

これが、時間がたって落ち着いてから自分で想像してみた結果です。


ただし、講師生命を懸け全力で指導に打ち込んでいた日々、「約束した結果を出す以外、絶対に講師を続けることはできない」と真剣に思い込んでいたのは事実です。


それが、全面的に自分を信頼してくれている生徒への自分なりの責任の感じ方として。


                                                      衣笠

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